大潮憲司, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=736580 / CC BY SA 3.0

#福岡県出身の大相撲力士
#時津風部屋
#スポーツに関する日本のギネス世界記録保持者
#北九州市出身の人物
#1948年生
#存命人物
大潮憲司

大潮 憲司(おおしお けんじ、本名:波多野 兼二(はたの けんじ)、1948年(昭和23年)1月4日 - )は、福岡県八幡市(現・同県北九州市八幡東区)出身で、1970年代から1980年代にかけて活躍した大相撲力士である。現役時代は時津風部屋所属で、最高位は東小結(1978年1月場所)。現役当時の体格は187cm、144kg。得意手は左四つ、寄り、突き。

引退後は、年寄・式守秀五郎(通称・式秀)を長く襲名し、1992年(平成4年)から日本相撲協会を停年(定年。以下同)退職する2013年(平成25年)1月まで式秀部屋の師匠を務めた。

幼いころに両親が離婚し、下宿屋で貧乏しながら育ち、いわゆる「おばあちゃん子」であった。中学2年生で身長182.5㎝、体重75㎏と学校でも頭一つ抜けた体格であった。当時はバスケットボールで活躍していたが、たまたま出場した相撲大会で優勝して、これがきっかけとなって粂川親方(元前頭1・双ッ龍)の勧誘を受けた。しかし当初は映画『土俵の鬼 若ノ花物語』(1956年公開)を見て、相撲界は厳しい世界だと感じていたので「絶対に嫌だ」「冗談じゃない」と拒絶していた。また、女の子にもてたいので飛行機の操縦士になるという夢を持っていた。それでも祖母にいい家を建ててあげたいという思いが、相撲界に入ることを決意させた。12代時津風の部屋に正座して入り、挨拶を行った際のことは、非常に緊張していたので、2018年の時点では詳しくはその時のことをもう覚えていないという。ただ、当時の12代時津風の身辺の世話は信頼している床山が行っており、力士の新弟子が付くことはなかったといい、それだけ12代時津風は近寄りがたい存在であったという。12代時津風は弟子にとって偉大な存在であり、12代時津風がスリッパの音や玄関を開ける音を鳴らしただけで周囲が静まり返ったという。

そうして時津風部屋へ入門し、1962年1月場所で初土俵を踏んだ。同期の初土俵組には、後の前頭・若吉葉らがいる。新弟子時代の時津風部屋には部屋に70人から80人が所属しており、稽古の時間を確保するために午前4時から稽古場に下りていたという。それでも、入門当初は中学在学中であったため、中学在籍当時は学校を卒業した普通の力士達とは事情が異なっていた。兄弟子達よりも早く稽古を切り上げ、台所で女中に朝食を食べさせてもらい、上からふたをしてぎゅうぎゅうに押しつぶして汁がカバンの中からこぼれたどかべんを昼食として持たされ、墨田区立両国中学校に通った。だが、教員は事情が分かっていたため、早弁してお腹いっぱいになると居眠りした波多野を大目に見て、居眠りから起こしはしなかった。旭國は両国中での同級生であり、相撲が好きな旭國は学校の昼休み中であっても「稽古しよう。廊下でもいいからやろう」と言ってきたが、稽古嫌いな波多野にとってこれは「勘弁してくれ」という感じであった。

そんな波多野は自身が付き人を務めている北葉山の指導を受けて相撲の素養を磨き、脇が開いてしまうのでどうしたらいいかと助言を求めた時は、竹ぼうきを挟んで脇を締めて打つ、鉄砲のやり方を北葉山は教えてくれ、さらに「ヒジで体の横をこするようにして、小指側から当てていくんだ」「すり足も、足の親指に力を入れてやると自然にヒザも曲がるよ」と、助言した。波多野は北葉山の頭を洗う時も、「毛先から根本へ向かって、ワキを締めて洗っていくんだ」と、北葉山の教えを徹底した。波多野は北葉山を「稽古量もすごかったし、研究熱心でしたよね」と振り返っており、幕内土俵入りでも北葉山はその日の土俵の土の感触を足の裏で感じながらすり足で歩いたといい、波多野もこれを参考にした。波多野はこれを知っていたおかげなのか、現役中勇み足で星を拾ったことも何度か経験した。波多野が若いころは、12代時津風は午前10時ごろに稽古場に下り、出稽古によく訪れた柏戸、北葉山、豊山で行われた三番稽古で指導を行っていた。12代時津風は弟子達にとって神のような存在なのでこの頃になると取的に胸を出すことは基本的に無かったが、巡業で兄弟子がいない時に「あんちゃん、こい」と言われて胸を借りたことが2、3度あった。下の力士にとっては畏れ多い存在なので、波多野にとっても「触らせていただいた」という感じの夢のような体験であった。12代時津風を波多野は言葉で何かを教える雄弁な人物ではないとして「てっぽうをやるにして...

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